思考の違い

スーツのネクタイを緩める男性

以前、当HPブログ内で書いた“生と死”というお話の中で、私が物心ついた時から死について考え続けていたこと、気になって眠れなかったということを書かせて頂きました。

そしてその当時、人間に寿命や死が訪れるということを全く気にしていないかの様な自分以外の周りの人間達を不思議に感じてもいました。

ですがこの様に、他者が気にしないことを自分は気にしている、気になるという思考(逆に言えば、他者は気にしているが自分は気にならない)は、恐らく形は違えど誰にでもあるはずです。
そしてそれは仕事面は勿論、家族に対しても大きく影響する場合があります。

私自身対人関係に於いて、その壁を最大限に無くさなければいけないと考えています。

心理カウンセラーをしていれば当然とも言えますが、かといって機械的になってもいけませんし、非常に難しいことなのです。
それは言い換えると価値観の違いを無くす、とも言えるかも知れません。

この価値観の違い的な思考に対して、真ん中から公平に見ることが出来る人間性を如何に培うことが出来るか。
これからも私の修行は続きます。

さて、それを踏まえて少しおかしな本題に入りましょう。

人間関係でも無く精神的なことでも無い、物理的な部分で何故か私が以前から気になっていることがあります。

それは、“ネクタイ”の存在です。
スーツの時に締めるそれのことですね。

簡単に言ってしまうと

「これは一体何の為の何なのか?」

この一言に尽きます。

何故これを首に締めなければいけないのか?
そして場合によっては、マナー的にネクタイをしなければ失礼となるのはどういうことなのか?

全く以って分かりません。最大の謎です。

この文化だけは不思議に思っていますが、私が変なのでしょうか?

誕生からこれまで何の異議も無かった為に、世界共通的にネクタイは当たり前の物として存在しているのだと思います。

確かに、ネクタイを締めると少し気が引き締まる様な感じがありますし、オシャレでもあります。

ですが、私は単純にネクタイをする必要性を感じられません。

それどころか、急いでいる時やスーツ着用時の作業の時は邪魔になってきます。
それと個人的に首輪を連想してしまいます。

ネクタイの歴史を自分なりに多少調べてみたこともあるのですが、特に現代社会に定着しているほどの理由が分かりませんでしたし、そもそも理由はあるのでしょうか。

過去の歴史上の人物の中で

「これ、邪魔だし特に必要ないですね」

と、唱える人もいなかったということでしょう。
全世界の人が当たり前の様にネクタイをしていますよね。

人間関係に於いて、相手のある部分が一度気になり始めるとずっと気になってしまいますが、私にとってはそれがネクタイの存在であり、少しストレスさえ感じます。

学校で特に教わったこともないし、何だかよく分からないままネクタイを締めさせられている、という状態です。

(ちょんまげ文化がなくなった様に、そろそろネクタイ文化もなくなってくれないかな?)

と、こんなことを考えているのはこの世に少数派で、だからこれからも無くなることはまずないでしょう。

一人で不思議に感じているというお話でした。

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